禊川歌碑

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◆所在地:垂坂町立阪神社境内

 立阪神社の境内にある歌碑です。禊川についてはどういう人物であったかよく分かりませんが、国学者黒沢翁満や御巫清直の歌碑と一緒に建てられていることから国学者なんでしょうね。
 碑には、
「米洗川をよみて遺しける 禊川  内外なる神にささげし米洗川 尽ぬながれの免く美をぞくむ」
と刻まれています。


天春文五郎君碑

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◆所在地:四日市市大矢知町興讓小学校内

 江戸時代、大矢知興譲小学校の敷地に武蔵忍藩の陣屋と藩校興譲館がありました。文政6(1823)年松平忠堯が桑名10万石より武蔵忍城に転封となり、それまで朝明・三重郡内の桑名藩領だったところの一部が忍藩領となりました。

 この小学校の校庭の片隅に、天春文五郎の碑があります。天春文五郎は嘉永5(1852)年、朝明郡大矢知村に生まれ、大矢知村戸長、学務委員、県会議員などを勤めました。彼が特に力を入れたのは興譲小学校の設立です。藩校興譲館を引き継いで、明治7(1874)年3月16日、興譲学校として再出発させました。まだ校舎がなかったので文五郎は自宅を仮校舎として開放しました。そして村民有志とはかって、官有地約八段を賜り、明治13(1880)年5月15 日、木造二階建て1棟、木造平屋建て2棟の新校舎を完成させました。さらに旧忍藩主松平氏の寄付を受けて校舍維持費としました。
 文五郎はのちに三重紡績会社社員となり、明治30(1897)年に45才の若さで病死しました。この碑は、文五郎の生前の徳を慕って、大矢知村民が明治34(1901)年5月に建立しました。撰は元衆議院議員平田力之助です。


丹波修治頌徳碑

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◆所在地:四日市市川北3丁目6−21

 本草学者・丹波修治の碑は朝明川南岸の筒井タバコ店の東隣にあります。碑は明治44(1911)年に建立されました。篆額は貴族院議員田中芳男、撰文は小沢圭次郎によるものです。
 丹波修治(1828-1908)は、尾張国(愛知県)の農家に生まれ、弘化3(1846)年に名古屋の伊藤圭介に本草学を学びました。嘉永元 (1848)年に朝明郡川北村(現・四日市市川北)の医家・丹羽家に養子に入りました。嘉永3(1850)年には近江信楽代官所多羅尾久右衛門の年寄役を務めるとともに植物採集にも精を出しました。彼の本草学の知識は公の場でも生かされ、明治10(1877)年には内国勧業博覧会に第五部審査官として参画し、明治11、2年には三重県勧業課九等属として在職しました。のち明治14(1881)年に官を辞して、本草学・博物学に專念することとなりました。明治15(1882)年、三重県内の産物の研究を発展させるために、伊勢交友社を結成しました。


御巫清直歌碑

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◆所在地:四日市市垂坂町立阪神社境内

 垂坂町の立阪神社にある御巫清直(みかんなぎ・きよなお)歌碑です。一緒に立っている禊川歌碑、黒沢翁満歌碑とともに大海人皇子(天武天皇)の伝説に関係の深い米洗川について詠んだ歌碑です。
 歌碑は以下のように刻まれています。
「むかしより麹の御贄たてまつ類なる垂坂村の米洗川による人にあわ久くれて 御巫内人清直
 かむたちのよねあらひてしかは美都は 久ちせ伝いまもなになかれけり」

 御巫清直(1812-1894)は、職業は伊勢大神宮権禰宜です。国学者としては松坂の本居春庭(宣長の実子)の弟子で、「太神宮本紀帰正抄」「神朝本紀」などを著し、神宮の故実を考究しました。その他和歌・書道・能楽・茶道・弓道・箏曲などいろいろの道を極めたという多才な人物です。


黒田翁満歌碑

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◆所在地:四日市市垂坂町垂坂山観音寺境内

 黒沢翁満(くろさわおきなまろ、1795-1859)は、伊勢国桑名の出身の国学者で、本居宣長に師事し国学を学び、「神楽催馬楽抄」「古今集大全」「万葉集大全」などを著しました。武蔵忍藩に仕えて大阪留守居役になった人物です。安政年間は垂坂村は忍藩領だったところです。
 数年前、名古屋の古書店で翁満の著書「藐姑射秘言(はこやのひめごと)」の写本を見つけました。立ち読みをしてみると様々な歴史上の人物を題材にした艶っぽい物語集です。お堅そうな国学者がこんな柔らかいものを書くのかと感心しました。
 「とことはに我名をお比てむくういの山松か枝もいやさかへなむ」と刻まれています。
 建立年代は「己未五月建之」(安政6(1859)年)と刻まれています。