山奥遺跡

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◆所在地:四日市市大矢知町・羽津

 現地説明会に行って来ました。発掘場所は富田山城道路建設によって昭和50年代には南北に分断されています。北側はミスタージョンの西にあり、南はあおい幼稚園と富田山城道路の間にあります。
 北勢バイパス建設に伴う第6次発掘調査では、3842平米で調査をして弥生時代後期・古墳時代後期の竪穴住居跡21基が確認されました。昭和52年の霞ヶ浦埋め立ての土取りに伴い調査が行われて以来、合計123基の住居跡が見つかり、この辺り一帯は古代の大集落であったようです。
 遺構は竪穴住居跡の他には、土師器を焼いていた土器焼成坑や排水溝などが出てきました。


蒔田城跡

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◆所在地:四日市市蒔田2丁目

 朝明山長明寺には、中世には蒔田城がここにありました。文治年間(1185-1190)の伊勢平氏残党の反乱のとき、蒔田相模守宗勝が居住していました。
 寺の周りには現在も城の堀が残っています。なお、三光寺(西富田町)には蒔田相模守の墓があります。


藩校興譲館跡

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◆所在地:四日市市大矢知町

大矢知興讓小学校の場所に、江戸時代に忍藩(おしはん)の代官所が置かれ、その一角には藩校興讓館があった。


天武天皇迹太川御遥拝所跡

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◆所在地:四日市市大矢知町1714   昭和16年5月21日県史跡指定    

 左の写真が平成14年8月頃以前の天武天皇呪志の元気なときの松、右が平成14年8月頃後の枯れた天武天皇呪志の松。
 日本書紀天武元(672)年6月27日の条に「於朝明迹太川群望拝天照大神」と記され、天武天皇が壬kの際、大和から伊賀、伊勢を経て美濃へ行く途中に、この地から伊勢神宮を参拝し、戦勝祈願をしたと伝える。史跡地内には、「天武天皇呪志の松」と称する松があり、地元では大切に守られてきたが残念ながら、上記右写真のように平成14年8月頃から葉が茶色になり枯れ、はじめました。


五島製糸場跡(亀山製糸五島工場)

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◆所在地:四日市市垂坂町

 垂坂観音寺の東の方に、かつて五島製糸場がありました。明治30(1897)年6月に五島小三郎という人物が、三重郡大矢知村大字垂坂であったこの地に設立しました。当初は釜数10個という小規模な工場でした。その後、事業を拡張し、明治32(1899)年には釜数36個となり、新工場も建てられました。明治35(1902)年には美富持製糸という会社を買収して分工場とするなどして急速に発展していき、昭和2(1927)年には釜数194個、従業員 280名、生産額993,298円を誇る三重郡最大の製糸工場にまでなりました。
 その後、世界恐慌のあおりを受け、営業不振に陥り、三重製糸に買収され、三重製糸五島工場となり、さらに昭和10(1935)年には、五島工場は亀山製糸の手に渡り、以後は亀山製糸五島工場となりました。戦時中の昭和18(1943)年、日本蚕糸三重工場となったこともありましたが、戦後は亀山製糸に復帰しました。
 昭和30年代に工場は閉鎖されてしまい、現在では建物は取り壊され、以下の写真のように土台の石垣や煉瓦だけがむなしく残っております。


旧大矢知村役場跡

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◆所在地:四日市市大矢知町1270

 JA三重四日市大矢知支店の西隣の敷地には、かつて大矢知村役場がありました。昭和3(1928)年に建てられた村役場の建物は、昭和63(1988) 年に取り壊され、現在、敷地内には当時の役場を偲ぶものとしてはの門柱と、日露戦争の忠魂碑などが残されるのみで、あとは消防団大矢知分団の倉庫と、三重の糸大矢知手延べ素麺協同組合の建物が建っています。
 明治22(1889)年4月1日、町村制により、大矢知村は、朝明郡大矢知、川北、松寺、蒔田、西富田、下之宮、垂坂村の七か村が合併して成立しました。初代村長は西脇沢右衛門です。その後、明治29(1896)年三重郡大矢知村となり、昭和3(1928)年に現在地に村役場を新築しました。当時の建物の様子は「郷土の文化遺産−四日市の民家と近代建築−」(四日市市教育委員会 昭和58年)に掲載されているので、そちらを参照してください。449.6平米、木造二階建ての左右対称の、立派な擬洋風建築だったそうです。荒木三郎氏(鵤町)の設計、水谷政五郎氏(大矢知町)の施工です。


鏡ヶ池跡(笠取り池)

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◆所在地:四日市市蒔田1丁目
 
聖武天皇の行幸にかかわる伝説が蒔田町に伝わっております。
 聖武天皇が朝明頓宮に入る途中に池がありました。北風が吹きすさび、突風で天皇の笠が池に吹き落とされました。そのとき、村の少女が進み出て笠を拾い上げ天皇に渡しました。馬上豊かな天皇の姿と、天皇を伏し拝む少女の姿が共に池に映って絵に描いたような美しい光景だったそうです。
 聖武天皇がこの地を去るとき、少女が出て見送りました。
 文明年間に東海道のコースが代わり、この池の真ん中を通るようになり、池は分断されました。明治末期まで東海道の両脇にしばらくは池が残っていたそうです。現在では昭和8(1933)年建立の碑だけになってしまいました。
 昭和26(1951)年、昭和天皇の四日市行幸に際して、富田一色町の平和堂ではこの聖武天皇の伝説にヒントを得て、銘菓「きみかげ」(池に映った大君の影ということでしょうか)を謹製献上しました。


大矢知山畑遺跡

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◆所在地:四日市市大矢知町

 左側写真は、調査地で背後の山が斎宮山です。右側の写真が調査発掘の全景です。
 大矢知山畑遺跡は、平成12年11月6日から発掘調査が行われた。
 市内北部の朝明川と海蔵川に挟まれた垂坂丘陵の、海岸低地に面した東斜面に位置する。垂坂丘陵から発する十四川が海岸低地に到達する地点の北側に、標高57メートルの通称斎宮山があり、その小丘から派生し、ななだらかに海岸低地に至る斜面に遺跡が存在する。
 弥生時代以降、鎌倉〜室町時代の集落で、大型の掘っ掘立柱建物や特殊な遺物の在存から、平安時代前半の在地有力者の居館もしくは寺院関連施設が有ったと思われる。